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2008年10月13日 (月)

竹内まりや

 体育の日。 東京はどんよりとした曇り空で肌寒い朝です。

 
 いま通勤で使ってる電車のドアーに、竹内まりやの新しいアルバムの広告が貼ってあるんだけど、そこに 『人生のところどころに彼女がいました。』 とキャッチコピーが書かれてるんだよ。

Sby_019f そのとおりだなぁ。 デビューしたのが’78年だそうだから、俺が社会に出る前の年だ。 あくる年にレコード大賞の新人賞を “SEPTEMBER” で取るんだけど、それはシングルレコード三作目。 最初に彼女の声を聞いたのはキリンレモンのコマーシャルで流れた

 ♪ レモンライムの青い風 伝えて愛のドリームオブユー ♪

 ”ドリーム・オブ・ユー ~レモンライムの青い風~” なんだな。 『誰だろう、この声。 伊東ゆかりの声に聞こえない?』 なんて友人と話をしてたものだよ。 それが竹内まりやだという人だとわかって買ったアルバムがセカンドアルバムの ”UNIVERSITY STREET”。 このアルバムは俺の大切なLPレコードの何枚かの中の一枚なんだな。

 
 竹内まりやと松任谷由実と中島みゆき、と松田聖子。 松田聖子以外の三人は俺よりちょっと年上だけどまあ同年代。 彼女たちがその時々に作る曲と俺の歩む人生がなんとなく一致していて、今も昔の曲を聴くとその時々の思い出がよみがえってくる。 聖子のデビューと俺の社会人スタートもほぼ一致しているのでまあそれなりに。
 

 いつもびっしりと聴いていたわけではない。 キャッチコピーの文句のように人生のところどころで彼女の曲が流れてたな。 いま俺は渋谷駅をよく使うんだけど、代表曲のひとつ “駅” の駅、俺にとっては渋谷なんだな。 あの人、どうしてるだろう・・・

 
画像。 東京・渋谷にて。
 

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2008年9月21日 (日)

山瀬まみ

 昨日と今日は近所にある氷川神社のお祭りで、子どもたちの元気な声とたぶんスピーカーから流れてくるお囃子の音が朝から賑やかです。 東京は、秋を感じる小雨が降ってます。

 
 仕事を終えて家に帰って 『どっこいしょ』 と、いちど座ってしまうともう立ち上がれません。 疲れがひどいというんじゃなく、もう何もしたくない気分になるんですよ。 そこでテレビをつけようもんなら、冷蔵庫からビールを取り出すのも面倒な気分になってしまいます。

Mij_054f 昨日もそう。 テレビのスイッチを入れ、ごろんと横になりながら帰宅途中に買ってきたから揚げとビールで空腹を紛らわしてたら、はじまったのが “ブロードキャスター”。 昨日が最終回だそうで “お父さんのためのワイドショー講座” はこの番組だったんだと感心しながら、けっきょく最後まで見てしまいました。

 17年半だそうだ。 17年半前というと俺は35歳。 そういえば、ワイドショーなどめったに見ない俺は手短に話題を拾うのにこのコーナーがありがたく、毎週見ていたのを思い出したよ。 最初から担当は山瀬まみだったね。

 この人、このコーナーに17年半、ためしてガッテンや新婚さんいらっしゃいも10年以上でしょ。 すごいよね。 なんだろうね、長く続く、というか、テレビ局側が長く続けさせようとする理由は。 タレント個人はもちろん人気商売だし、番組だって視聴率が落ちれば終わるよね。 目立たないけど、なぜか気になる人だよな。

 
画像。 東京、明治神宮にて。
 

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2008年8月19日 (火)

清原和博

 天気予報では夕方から夜にかけて強い雨だったんだけど、実際にはほんのお湿り程度。 おかげで蒸し暑い夜を迎えている東京です。
 

 清原引退。 忘れられないのは’87年の日本シリーズ、あと一勝、あとアウトひとつで優勝というときに、守っているファースト守備位置で涙を流しはじめたシーン。 相手は読売ジャイアンツ。

Kiyohara01_2 ’85年のプロ野球のドラフト会議、日本中の誰もが 『清原を指名するのはジャイアンツ』 と思っていたはず。 それがなんと、読み上げられた名前は、桑田。 桑田はプロ野球には行かず、早稲田大学に進学するものと誰もが思ってたところへの指名で、清原を当てたのは西武ライオンズだったんだな。

 清原はジャイアンツで野球がやりたかったんだよな。 子どもの頃からの憧れの巨人で野球をやると、日本中の誰もが信じて疑わなかったんだよな。 桑田に裏切られたと思ったんじゃないかな。 『もう野球はやめる』 って思ったりしたんじゃないかな。 阪神タイガースならまだしも・・・、って思ったと思うんだよな。 それでも彼は西武に入った。 そして一年目から活躍して新人王のタイトルを取るんだよ。
 

 涙を流したのは二年目。 俺思うんだけど、清原の野球人生はこのときに終わったんじゃないかと。 ジャイアンツで野球をやるために野球を続けてきて、その夢があっけなく砕かれて、そして次の目標のジャイアンツに勝つということも早々に実現した。 清原は打者としてのタイトル、打率、安打数、本塁打の三冠のタイトルは、ひとつも取ったことがないんだよ。 後年になって憧れのジャイアンツに入ったけど、もう遅かったよな。
 

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2008年7月13日 (日)

松田聖子

 目覚めたときには涼しい風が吹いてたんですが、今はそよともせず、暑い一日になりそうな東京です。

 
 最近の松田聖子、テレビへの露出が増えたね。 女子バレーボールの応援に出てきたのはビックリだったし、フジフィルムが出した化粧品、ASTALIFTのコマーシャルでの中島Hadashi みゆきとの競演も驚いたよ。 プロデュースがサンミュージックに戻ったんだったっけ? そうそう、火垂るの墓(ほたるのはか)の映画版にも出演だとか。 出番は少ないみたいだけど、映画のフライヤーの文字は松坂慶子と同じ大きさ扱い。 『いつまでもアイドルの聖子』 だけど、芸能界の第一線で活躍し続ける彼女も、もう立派に大スターなんだよな。

 
 昨日、武道館のコンサートに行ってきました。 二年ぶりかな。 舞台装置がシンプルで、今までのコンサートのように踊って動いてじゃなく、じっくり聴かせるコンサートでしたよ。 なかなかよかったです。
 

Seiko_01 二階席から遠目に見ながら思ったんだけど、この人、歌うことがほんとに好きそうだね。 これはタブーなのかもしれないけど、あえて書くけど、口パクの曲数が少なくなったみたいに感じたよ。 昔に比べれば声は出ないし高音域は特にしんどそうだし、呼吸も・・・、だけど、それでもこの人、自分で歌いたいんだろうなと思ったね。 『こんなに応援してくれて、みんなといっしょに盛り上がれてうれしい、ありがとう』 ってことをコンサート中に何度も言うんだけど、まあ、ほんと、客と一体になって歌うことが楽しくて仕方がないんだろうな、って感じるよ。

 
画像。 去年あたりの画像かな。
 

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2008年6月28日 (土)

渋井陽子

 雨が落ちて来るようで来ない空模様。 天気予報ではこの後晴れ間もとは言ってるけど、傘を持って出掛けようかどうか、迷う今朝の東京です。

 
 この人の勝ったところは見たことがない。 トラック競技はあまり見ない俺なんだけど、マラソンは自分がやってたこともあってテレビで中継するレースはほとんど見るんだよ。 でも、この渋井陽子という人、よく出ていていつも注目株なんだけど、必ず途中で脱落してしまうんだ。
10000m 実力がないわけではないし、いつもどおりの走りをすればトップでゴールに入るチカラはあるんだよ。 でも、さあこれからというときに、スルッと横から優勝経験があって名前も通ってる人が抜け出すと、ズルズルと後退をはじめてしまうんだな。

 
 昨日の陸上の日本選手権、女子1万メートルの渋井は違ったね。 後半ずっと渋井、赤羽、福士の本命三人のデッドヒートは圧巻だったよ。 『渋井、またダメなのかな?』 なんて思いがよぎったけど、最後の最後で赤羽と福士を振り切ったレースは今までの渋井からは考えられないゴールだった。

 話は変わるけど、オリンピックなんかで日本人選手が韓国人選手と競う場面では、必ずと言っていいほど韓国人選手が勝ってきたよね。 終盤までは互角の戦いをするんだけど、ゴール直前になると日本人選手は韓国人選手に譲るような形で後退してしまう。 日本人は “粘る” ということをしないのかね。 最後の最後で “譲る” という “日本人の美” を発揮してしまうように思ったことは何度もあったよ。 それは自慢できる民族意識として持ってはいたいけど、粘る、競り勝つという意欲を持っている韓国人選手たちを見習わなきゃとも思ったものですよ。

 
 渋井はオリンピックに行ったことがなかったんだそうだね。 『私は絶対に行くんだっ!』  この執念が今までの渋井にはなかったんじゃないかな。 おめでとう、渋井さん。

 
画像は、読売新聞から。
 

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2008年6月20日 (金)

野村克也

 梅雨です。 蒸し暑くはっきりしない天気の東京です。

 
 小学校の担任の先生がよく話をしていたな。 子ども心に 『先生、また自慢話してるよ』 と思ったのを憶えてるよ。 京都府網野町(現在は京丹後市)の出身で、先生と野村監督は小、中学校の同級生だったらしいんだ。

Nomura その頃の野村監督は、南海ホークスのキャッチャーで、戦後初めての三冠王を取った時代かな。 プロ野球にはテスト生で入って実力でのし上がっていった姿は、巨人・長嶋茂雄、阪神・村山実が目立って人気のあったその陰に隠れてた存在だったけど、郷土の英雄として、目標とするものを感じる人として見ていたのを憶えてるよ。

 その野村監督が、監督として臨んだ仕合の負け数で、トップに立ったそうだ。 いやいや、これはね、まあ贔屓目に見てのことだけど、立派な数字なんだよな。 たぶんね、もっと素直な人だったら、強いチームの強いときの監督に引っ張られるんだと思うんだ。 そして、もっとすごい数字を残すんだよ。 ところが、引き受けるのは決まって弱いチームの監督。 だから負け数も多いわけだ。 俺も負け数は多い。 でも、それでも、勝負は挑むよ。

 
 いま思うと、あのときの先生の教育は、俺の中にしっかりと根付いてるね。
 

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